寒さが朝夕目立つようになりましたね。秋です。
栽培が育てる自分自身
栽培すると言うと「野菜や植物たち」
その先に在るモノは、実に為にあります。
ただ、それは接し方(向き合い方)、考え方により異なっていきます。
- 単に食べ物と考える
- 観賞物と考える
と感じ取るか。
- 食べられる機会に感謝する
- 成長の変化に、進化を得る
- なぜか。変化。問いかけ対話する
モノとして接するのか、生き物として接するのか。
昔は、単なるモノとしてでも、「愛着」が育まれていました。
使い”捨てる”という行為は、少なかったです。
共に生活する。そんな精神が自然とありました。また、物事に感謝すること。
妙に、危機感を感じているのは、年齢のせいでしょうか。
また、寂しくもあります。
その目の前に、機会はあるものの目が衰えてきているように感じます。
しっかりせい
型ではない。自然をみてほしい…
自然も探し出さないと自然でなくなりました。
言い換えると「その目でしっかりと自然を見極めてほしい」
一概に、一方通行でもよくありません。個々に個々の責任や反省もあります。
きっかけ づくりです。気がついてほしい。感じ得てほしい。
その「気がつく為」には、どうするのか。
対話する
自ら自身へ対話します。
独りでとは、実に現代にとって厳しい事なのかもしれません。
そこで環境としてあるのは、栽培です。
対話してみるとよくわかります。問いかけてみてください!
「・・・」
音は、聞こえませんね。
でも、時間と共に姿勢が移り変わります。(その姿は、見せてくれませんが。)
反応しています。何に対する反応か?
自身です。自身が問いかけた行為全て
- 水の調整
- 日差しの調整
- 土の調整
- 風の調整
- 問いかけ、疑問
自然と自身で考え抜くようになります。自然と…
「わからない」っという事もあるのかと思います。
それは、「なぜか」と、切に考えた方が良いと感じています。
でないと、自身から自身が離れて行きます。
力まない
自然相手ですから、何も言葉では言ってくれません。笑
感じることでしょうか。
頭で考えすぎるとショートします。
わからないということと。それは、「なぜか」と栽培しながら生活すると
不思議なものですよ。感覚が自然と感覚の歯車と噛み合ってきます。
時間という道に、足が吸い付いてきます。
栽培ひとつ、不思議と奥行きが物事にはあるようです。
感謝