自然の層が生み出す力
裏山にある自然の恵みを分けていただきました。
自然環境が、自然と生み出す光景や力には未知なる部分があるようです。
というものの我々日本人にとっては、当たり前のこと。だった
というのが自然かもしれません。
迷子、見失ってきている。見失ってしまった。
どうでしょうかね。
受け止める心が、弱くなってきているのかもしれません。
それは自然環境だけにいえるだけのことでもなく、すべてにそうかもしれません。
自然という大地の上に、我々は生活をし、食を得、水を得ます。
本来は、それだけで自然と人間は、生活ができます。
時間とともに、人が知恵をつけ、お金を生み出しました。
その結果、共存の意識に差が生まれてきました。
それは何のためか、自分自身のことを考えるヨクでしょうか。
自分を生きること選択ができるように膨らみが生まれました。
すみません、少しばかし考えすぎました。
時代が生み出す生命
このとき、瞬間に生命が誕生しています。
その国は選べません。生まれて目にするものが、地球です。
気がつくと、手にとり、口に含み、消化し、体の一部となります。
選択権は、一定の年齢まで、周囲の環境が機会として与えてあげるしかありません。
土から生まれる食べ物。原点が失われかけていないか。
どこかにある危機感。なんとかして届けたい想いがあります。
自然と生きる
腐葉土、文字から読み取ると腐った葉がある土というイメージが生じてしまいます。
それは、途中過程を目視した際に感じられる表現。
自然が時間をかけて生み出す層は、土。
腐葉土のその先があるということです。
待てなくなった・・・
なんでもかんでも「即座に答えを得ようとします。」
結果、待てないから「考えさせることもなく、答えを与えてしまいます。」
そのわりに社会は、答えを求めます。自分自身から離れてしまうのかもしれません。
腐葉土を見てみてください。
触れるともっと体感できますが、美しさが見え隠れしています。
なぜか、そこに自然の魅力が隠れているからです。
力は、体感することで得られます。
イメージしてください。
山の中へ、一歩踏み出し、落ち葉がいっぱいしき詰まれた、
どこかふかふかな土の上を歩くと「心地よく」ないですか?
そう、気持ちが良いのです。体が欲しているのかもしれません。
調和が取れ、どこか何かを解き放ち、吸収しています。
触れてみませんか?
腐葉土が包み込む、自然の力を・・・
腐葉土という言葉自体を改めた方が、すっきりするかもしれませんね。